【番外編】映画『GO』が教えてくれた──国と民族と“個”の境界線

このブログでは普段、名作マンガを通して「現代を生き抜くヒント」を探している。
だが今回は【番外編】として、ある一本の映画から受け取った、大きな問いについて書いてみたい。

2001年公開の映画『GO』。
主人公は在日コリアン2世の青年・杉原(演:窪塚洋介)。
ラブストーリーであり、青春劇でありながら、観終わった後に胸に残ったのは──「自分は何者か?」という問いだった。
いま、外国人参政権が争点の一つとなっている参議院選挙を前に、この問いはますます無視できないものに感じられる。

※本記事はアフィリエイトを利用しています。


◆「俺は何者だよ」──ラベルに縛られる社会で、生きるということ

「お前ら、名前をつけねーと怖えんだろ。」
「俺は朝鮮人でもない、日本人でもない。ただの根無し草だ。」

このセリフは、ただの劇中の言葉ではない。
国籍、民族、出自──そうした“名前”がないと、人は他人を理解できないのか?
そんな社会のあり方そのものへの、痛烈な問いかけだ。

杉原は、日本で生まれ、日本語で育ち、友達と笑い合う「普通の高校生」だった。
だが国籍という一枚のカードによって、彼は“日本人ではない”とラベリングされる。
彼の怒りと哀しみは、私たちが普段見過ごしている「社会の前提」を強烈に揺さぶってくる。

product.rakuten.co.jp


◆“保守”である自分に突きつけられた違和感

僕自身はどちらかというと、日本人としてのアイデンティティを大切に思っている。
選民思想ではない。だが、日本の文化や価値観を守りたいという気持ちは強い。
外国人参政権にも基本的には反対の立場だ。
国家の意思決定は、その国の責任を負う国民によって行われるべきだと思うから。

ただ、『GO』を観てから、この考えがぐらついたわけではないけれど、「それだけでは足りないのではないか」と感じるようになった。

「全員が反日なわけじゃない」
「ただ、自分として生きたいだけの人もいる」

そういう“個人”を、僕たちはちゃんと見ようとしているだろうか?


◆国家と個人──重なっているけれど、同じではない

国家は制度であり、枠組みだ。
そこに暮らす個人は、まったく別の主義や思想、価値観を持っている。

たとえば中国、韓国、北朝鮮といった国々に対して、僕自身がネガティブな印象を持っているのは事実だ。
だが、だからといってそこで暮らすすべての人々が「日本を敵視している」わけではない。
その当たり前の事実が、時に見えにくくなってしまうのが“国家というフィルター”だ。


◆答えの出ない問いを持ち続けるということ

『GO』は、観る人に明確な答えを与えない。
むしろ、問いを手渡してくる映画だ。

  • 自分はどこの国に属しているのか?

  • 国家というものを、どう受け入れ、どう疑うべきなのか?

  • 他者を「一つの個人」として見るとは、どういうことか?

こうした問いに、簡単な答えはない。
だが今、外国人参政権という争点が浮かび上がる中で、僕たちは「国家と個」の関係について、もう一度真正面から向き合わなければいけないと思っている。


◆“現代を生き抜くヒント”は、映画からも得られる

『GO』を観て感じたのは、
**「人をラベルで見ることの危うさ」**と、
**「それでも国という構造から逃れられない人間の矛盾」**だ。

この映画はマンガではない。けれど、人間がどう社会と付き合っていくべきかという点で、名作マンガと同じ熱と問いを内包している。
だからこの番外編は、単なる脱線ではなく、やはり僕なりの「現代を生き抜くヒント」なのだ。

↓アマプラでも見れます。

https://amzn.to/463YYfc

 

◆おわりに:保守もリベラルも、「問い続ける姿勢」が必要だ

僕はこれからも日本人としてのアイデンティティを大切にしたいと思っている。
それと同時に、他者をただの国籍やラベルで判断しない視点も持ち続けたい。

“国家と個人”という、切っても切れない関係性の中で、どう生きるか?
その問いを抱えながら生きていくことこそが、現代を生き抜くための土台になるのではないか。

映画『GO』は、そうした“覚悟”を、僕の胸に静かに刻んでくれた。

関連記事

 

mangajapan.hatenadiary.com

mangajapan.hatenadiary.com

mangajapan.hatenadiary.com